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選文|03. 千年の里、新潟「中ノ俣」 『自然栽培』2016年春号 P.4-11

未来へ続く暮らしを求めて
千年の山里、新潟「中ノ俣」へ

新潟県上越市の西側にある山間の村「中ノ俣」。
人口百人に満たない小さな集落の歴史は、千年を超える。
ここは、効率化だけでは計れない
未来へのヒントがたくさんある“宝の山”。
国土の7割が中山間地域という日本の地の利をどう生かすか。
農業の大規模化とは一線を画す、
知恵と技のある暮らしを中ノ俣に見る。

 車一台やっと通れるほどの道が山奥へと続き、峠をいくつも上り下りしたその先にこの宝の里はひっそりとある。
 新潟県上越市中ノ俣(なかのまた)。高田から車で約30分。50戸80人が肩を寄せ合うように暮らす小さな集落だ。ほとんどが70〜80代のお年寄りで根っからの働き者。曲がった腰で、日々田畑に出ている。
 昭和55年までは、除雪が完全には行き届かず、冬の間は車で村へ入れないこともあった。人びとは、長い冬を谷間の雪に閉じ込められるようにして過ごしてきた。
 そうした長く閉ざされてきた場所のせいか、集落の人たちはみな、なんでも自分でこなす。野菜やコメづくりはもちろんのこと、山菜やキノコ採り、家の修繕、橋までつくってしまう。カゴや背負子(しょいこ)などの道具も手でつくる。
 これは、昔話ではない。いまこの時代にも、山奥で、たくましくしなやかに生きる人びとの話である。

「農」とともにある暮らし

 五月下旬、中ノ俣ではいっせいに田植えの時期を迎える。小高い場所から集落を見下ろせば、手入れの行き届いた〝猫のひたい〟ほどの田んぼが、谷底までずっと連なっている。
 田一枚が小さいため、いまも作業の多くは手作業で行われる。ビビラと呼ばれる大きな熊手のような道具や、かつては木枠に糸を張った格子(こうし)などが用いられた。
 こうした農作業は人手がかかるため、周囲の人たちと「イイッコし合う」(助け合う)のが欠かせない。ひと昔前まで、田植えともなれば村中総動員。共同で作業を進めるための決まりごとがたくさんあった。
 御歳77歳、集落の人気者でコメや炭焼き、牛飼いの名人、「まごえもん」(屋号)こと石川昌司(しょうじ)さんは、昔の田仕事の様子を昨日のことのように覚えている。 
「田植えんときは、女衆は田んぼの神さまよ。誰も逆らえん」
 田に命を宿す、苗を植え付けるのは絣(かすり)の着物を身につけた女たちの仕事だった。格子に3人並んで入り、慣れた手つきでひょいひょいと植えていく。人によって多少間隔がずれるのもご愛嬌。格子持ちも入れて4人から6人をひと組とし作業が進められた。人が頼りなので、今日はあの田んぼ、明日はこちらと、親戚やご近所同士で協力し合う。年寄り子どもにもちゃんと苗投げや子守りなど役割があった。
 休みを取るのもすべての田植えが終わってから。互いに助け合わなければ暮らせない環境で、「お金でなく、手間でやり取りしたわけさ」という。
 もちろんここ数十年の間に、田んぼを広くして機械を使うようになった農家もある。だがまだ多くの田んぼでは、お年寄りたちが弱った足腰で、杖をついてでも、手植え、手刈り、ハサ掛けを続けている。
 昔は子ども一人生まれるごとに田を一枚切り拓いたという。田んぼは先祖代々受け継がれてきたもので、山の神さまが宿る場所。どの田んぼも、人びとが心を尽くして手入れをする、大切な場所である。いまではすっかり荒れてしまった周囲の山々の斜面にも、かつては一面棚田が弧を連ねていたという。35年前に中ノ俣へ嫁いできた女性は、その光景がまるで山水画のようだったと教えてくれた。
 中ノ俣の人たちにとっての〝農〟は、いわゆる「農業」とは少し意味合いが違う。彼らの暮らしそのもので、生きている証でもあるのだ。

循環型の暮らしと未来

 昭和30年代までは、「炭焼き」も重要な仕事のひとつだった。田植えが終わると男たちは山へ入る。木のある場所に窯をつくり、なくなればまた移動を繰り返した。15年もすると孫生(ひこば)えが生えてきてまた木が育つ、自然の流れに沿ったやり方だった。
 中ノ俣の上質な炭は料亭などで珍重されており、いまも細々と炭焼きをする職人がいる。
「昔の人はようしたもんで」と昌司さんのいうように、こうした昔の山仕事や田しごとは、労力がかかっても、しごく理にかなっていた。 
 草、木、生きもののはたらきをうまく利用して無駄にしない。農業資材を買わずに、自分たちで循環させることができる自立した方法だ。
 たとえば収穫後の稲株は三本グワで返して田にすき込み、夏に刈った畦(あぜ)草もすべて田に入れる。代(しろ)かきする牛の糞は、草と混ぜ、十分に発酵させて翌年の肥にする。
 エネルギー不足や環境破壊の問題を抱え、持続可能な未来を模索しはじめた私たちにとって、中ノ俣の暮らしは多くのヒントを与えてくれる。

冬じたくは一年しごと

 冬になり農作業も落ち着くと、毎日のようにおかあさんたちのお茶飲みがはじまる。外が大雪でもなんのその。今日はあの家、明日はこちらと渡り歩く。家には春から蓄えてきた保存食などがぎっしり詰まっていて、お茶請けにはこと欠かないのだ。
 一度雪に閉じ込められれば、買い物もままならない土地がら。町へ出なくても困らないだけの食料を、みんな自ずと蓄えている。
 取材に訪れた日も、食卓にずらりと保存食のごちそうが並んだ。砂糖で甘く煮た梅など、同じ料理でも家によって味が違うのがまた楽しい。
 毎年、冬じたくはもう春にははじまる。フキノトウ、アザミの新芽にワラビ、コゴミ……と挙げればキリがないほど、近くの野山で山菜が採れる。天ぷらやお浸しにしていただき、一部は市場へ。残りを天日干しや塩漬け、茹でてびん詰めなどにして、涼しい場所に保存しておくのだ。
 おかあさんたちが集まると、それはそれはにぎやかだ。「今日はおニューよぉ」と誰かがおどけてかっぽう着を見せびらかせば、家が揺れるほどの笑い声が起きる。
 一人暮らしの人も増えたが、「いまが人生で一番自由、うるせぇ父ちゃんもおらんしな」と言うのにまた一同、ドッと笑う。
 ただ、たくさんこしらえた保存食は、一人では食べきれない。
「それがもったいないね」と少し寂しそうにつぶやいた。

ワラ仕事もお手のもの

 お正月も過ぎると冬は農閑期。すっぽり雪に覆われた家のなかで、人びとはワラ仕事に精を出したという。 
 お茶飲みもそこそこに、作り方を教えていただくことに。「人さまに教えるほどじゃねぇんだけど……」と渋っていたおかあさんたちは、ワラを手にした途端、すごいスピードで綯(ルビ:な)いはじめた。その滑らかな手つきに目が釘付けになる。
 まずはツチ(杵)で稲ワラを打って柔らかくする。そのワラで基本の縄を綯(な)い、その縄で草履(ぞうり)やカゴなどを編んでゆく。子どもの頃からワラ仕事はお手のものというマサエさんは、足の指にひょいと縄をかけて、みるみる草鞋を編み上げた。
 履物はもう使うことはないが、フゴと呼ばれる手さげやセナコウジ(背負子)は、いまも現役で、野良仕事に使う。壊れたら「ほしゃ、つくるか」とワラに手が伸びる、まだまだ生きた暮らしの知恵と技である。

春のよろこび

 雪解けの季節を迎えると、中ノ俣の人びとはにわかにそわそわしはじめる。山菜が顔を出し、そろそろ田んぼも準備しなくてはならない。また一年がはじまるのだ。
 それから2ヵ月後、すっかり暖かくなった5月3日と4日には、春まつりが盛大に行われる。いつもは静かな村に、子どもや孫たちが大勢帰ってきて一気ににぎやかになる。
 初日は男衆の担ぐ神輿が練り歩き、神主が一軒一軒の家をお祓(ルビ:はら)いして「今年もお元気で」と声をかけてまわる。二日目に神社で行われる「お神楽(ルビ:かぐら)」はおばあちゃんたちのなによりの楽しみ。何百年も前から続くこの祭りは、中ノ俣にとってなくてはならないハレの日だ。
 昭和30年頃から、男たちは冬に出稼ぎに出るようになった。村を出ると、ことさら中ノ俣の春が思い出されたと話すのは、65歳にして村では「若けぇもん」のひとり、石川正一(まさいち)さん。
「春の風が吹くともう帰りたくていても立ってもおられんでねぇ。血が騒ぐっていうんかな」
 カタクリの花が一面に咲く風景や春の土の香り。中ノ俣に戻り、夢中で雪をかきわけて土に触れたこともあった。

昔ながらの暮らしを伝える

 山菜やキノコ採り、大工仕事などなんでもこなす正一さんは、年寄りの多くなった集落で頼りにされている要(かなめ)の人だ。24人いた同級生のうち、村に残るのは正一さんただ一人。
「お前がこの村の最後を見届けて鍵さかけるんだって年寄りに言われたこともあったけど、なにかできるうちに、やれることをしたいと思って」
 正一さんは、何人かの有志と共に「たき火会」を立ち上げる。中ノ俣に残る生活文化や自然資源、ここで生きていくための智恵や技術を伝えることが村の再起につながるのでは、とみんなで話し合った。平成13年のことだ。
 まず行ったのは、山菜祭り。町から大勢の客が訪れ、あっという間に完売する反響だった。翌年には昔の農法を再現した「牛と田掻(ルビ:たか)き」を行い、雪を生かして山の木を運び出す伝統の「大持引(だいもちひき)」、「牛の土引き(どうびき)」と続けて、その都度多くの人が訪れた。
 平成14年には、上越市西部の中山間地域一帯を拠点に活動する「NPO法人かみえちご山里ファン倶楽部」が中ノ俣の地球環境学校の運営にも携わるようになり、村の活性化にも拍車がかかっていく。
 十年続いた「たき火会」は、現在メンバーを新たに「はだしの会」として再結成されている。この試みは、なにより集落の人たちの意識を変えた。当たり前だと思っていたここの生活や自然の恵みを自覚したことによる誇り。それは外から訪れる人たちにも伝わり、十年近く東京から通い続けたあと、中ノ俣に住むための家をつくりはじめた人もいる。

生きる力を身につける、学びの宝庫

 電気も水道も、道路が通るのもほかの地域より遅かった。「遅れている」「不便な場所」といわれてきた中ノ俣には、その分、昔の豊かな暮らしが残っている。道具は手でつくり、食べものは野山から得る。山から水を引く用水路は、毎年みなで手入れを行う。
 かたや、都会での暮らしはどうか。経済成長と技術の進化の末、額に汗しなくてもあらゆるものを手に入れることができるようになった。それと同時に、すべてをお金でまかない、生きるために必要な最低限のものさえ、水も、火も、食べものも、自分の手で調達する術を失ってしまった。
 中ノ俣と同じような集落は、日本中の山間地域にまだかろうじて存在する。そこに暮らす人たちは、自然の営みに呼吸を合わせて、五感を研ぎ澄まし、支え合いながら生きている。過去のものになりつつあるこうした暮らしにもう一度目を向けることは、未来への道しるべになるだろう。中ノ俣は、生きる力を身につける学びの宝庫だ。その宝にいち早く気づいた人びとが、この里山を訪れはじめている。

季刊書籍『自然栽培vol.6』P5-11 
東邦出版 2016年春号

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