心をつかうということ
世の中には、もうたくさん、というほど情報があふれている。
私もライターとして、その情報を世に送り出しているひとり。
私たちは毎日、たくさん頭を使っている。
でも、大人になればなるほど、心をつかうことは、少なくなる。
子どもの頃はささいなことでも驚いたり、どきどきしたり、嬉しかったり、心のほうがとても忙しかった。
大人になって、毎日頭ばかり使って生きている。
心を動かすことが、こんなにも気持のいいことなんだと気づいたのは、
南阿蘇の水に出会ったときだ。
その透明感は、心の動く”澄みよう”だった。
思わずふれたくなり、近寄っていって手を入れた。
ひんやりとした、でもやわらかい水だった。
みしり、と音をたてて(はいないけど)、ずいぶん長く固まっていた部分が動いたような感覚がした。
そして水面のゆらぎを眺めているうちに、心の隅々にまで真新しいエネルギーがいきわたるようだった。
思えば、田舎に暮らすことの良さは、こうした心で感じることにあるように思う。
もちろん都会にいても、ふと目に入ったポスターがいいなと思ったり、聞こえてきた音楽に一瞬心を奪われたり、おいしそうだなと思ったり。そんな風に心が移ろうことは多い。
それが楽しいとか、刺激ってことになるのだろう。
もしくは、仕事でいろいろあったあと、
宵の頃に歩く公園は、心の機微を映して、いろんな風景を見せてくれる。
クオリティ・オブ・ライフとか、暮らしの豊かさといったことがよく言われるけれど、
都会にいても田舎でも、心をつかうことが、動かすことがとても健全で、豊かなことなのだと思い知る。
そこに頭でっかちな理由はいらない。
空を見上げてああ大きいと感じることだったり、じゃがいもの皮の土の匂いだったり、
水の冷たさだったり。
子どもの頃は敏感に感じていたような心の動きをを思い出す。
日々、そんなことが感じられたら、場所はどこであったって、それでとても贅沢なのだと思える。
贅沢とは、頭で考える情報ではなくて、心の動きの豊かさだ。